search

<前編>ソープランド店長から、人力車夫へ。殴られても人力車を引き続けた、岡崎屋惣次郎の軌跡。

2018/04/11

浅草って、どんなイメージですか?下町?雷門?外国人の集まる観光地?――――でも、それだけではないのです。多くの老舗が伝統を伝える一方、新しい挑戦者も集う。古さと新しさが繋がる街、それが浅草です。

特に、浅草には多くの文化人を輩出した歴史があります。今もなおこの地に育まれ、経済、カルチャーなど新ジャンルで活躍する人は少なくありません。そんな「浅草人」の魅力にスポットを当てていきます。


 

岡崎屋惣次郎さんは、ソープランドの店長から人力車夫になった驚きの経歴の持ち主。
「講談人力車」「人力車東京1周ツアー」「猿が引く人力車」など、常に新しいアイディアを追求し、
お客さんを楽しませる努力や工夫を惜しまない人です。
そんな彼の今までの歩みと、浅草に対する想いに迫りました。


 

江戸福事件勃発、「京都のカイシャ」出現。それでも僕は人情を信じる。
 

—そもそも、なぜ人力車夫になろうと思ったのでしょうか?

僕は昔、ソープランドの店長をやっていたんですよ。吉原も、歌舞伎町のホストもやった。男のロマンがあるなと思って(笑)。
でも、1日陽に当たらない建物の中にいる時間や、昼夜逆転した生活を送ることが増えて不健康になったし、何より女の園で胃がやられました。「悩みを聞いてほしい」と言われることが多かったんだけど、「いや、こっちの悩みも聞いてもらいたいよ」って感じでね。
ソープランドのオーナーにでもなればやっていけるかと思ったこともあったけど、アクティブに動き回るのが好きだったし、敷かれていない線路の上を走ってみたいなと。

そんな時、たまたま目に入ったのが人力車でした。
当時人力車営業をしていたのは『江戸七福』『時代屋』の2社で、合計7台しか人力車を持っていなかった。その内の江戸七福が、僕と人力車夫仲間の松風に月15万で人力車を貸してくれていたんですよ。
今でこそ珍しくもないですが、当時は雷門に人力車があまり走っていない時代だったので、みんな乗ってくれてぼろ儲け。車庫代や税金もかからなかったですしね。


 

▲人力車夫を始めたての岡崎屋惣次郎さん。イケメン!





そんなある時、江戸七福の社長の元に、京都で人力車営業をしていた会社OBが遊びに来る機会がありました。
その人が、「人力車を
15万円なんてはした金で貸すのは良くないですよ。もっと商売の方法を変えましょう」と提案をしてきたんですね。江戸七福の社長もそれに乗っかったようで・・・

その日の夜に僕と松風が呼び出されまして。「今までのような月15万円のレンタル制度は破棄して、時給1000円で働いてもらう」と一方的に宣言されました。

当時松風は結婚して子どもができたばかりでしたし、僕も「時給1000円では割に合わない」ということで人力車を2台買い、2人で同じ車庫を借りて独立したんです。

 

それを知った江戸七福の社長が激怒して、事もあろうに私たちのことを白昼の交番の前で殴っ・・・)ry警察から「事件として訴えることもできるが、そうしたら浅草で人力車夫ができなくなる。話し合って結論をまとめた方がいい」とアドバイスをいただき示談になったんですけどね。結局、江戸七福の社長は人力車営業から足を洗ったんですよ。ただ持っていた人力車4台と営業権を、浅草に進出したい人力車屋に全部売り払っていて。

それからは「客待ちではお客が取れない」状況になっちゃって。他の人力車屋も右に倣えでスタイルが変わっていきましたね。ただ、浅草の町は総出で排除しようとしていたんですよ。観光連盟、商店連合会、警察含め。

 

—なかなか大変な時代ですね・・・

 

そんな中、最初の1年間は雷門を塞ぐような形で客待ちができたのですが、「交差点の中で待つのは良くない」という警察の指導のもと、人力車が散らばったんです。その時、僕が選んだのが天ぷら屋の老舗・三定の前だったのですが、時代屋も同じ場所で客待ちをしたいということで、僕は2番手で人力車をつける状態でした。「まあ、放っておいてもお客さんがつく時はつくし、客引きをするのはやめよう」と思い、1日本を読んで、ただひたすらお客さんを待っていたんです。

そうこうしているうちに、三定の当時の社長が時代屋に「店の前で客引きをしてもらっちゃ困る。本を読んでいるだけの岡崎屋はここにいろ他の者は入らせるな」と言ってくれたんです。浅草は人情の街なので「店の主がそう言うならば」ということで、時代屋はそれっきり三定の前には来なくなったんですよね。

▲当時の三定の様子。
 

えびす屋が浅草に来始めた時も、商店連合会会長の所に行き挨拶をして「三定の前を使わせてくれ」と交渉したけれど、当時三定の社長は強い権限を持っていたので、突っぱねたんです。

そんな流れで、最初の10年間は三定の前で客待ちをして商売が成り立ちました。それが浅草での人力車夫としての歩みで、僕と三定は人情で繋がっていたと思っています。
 

 

Original

この記事を書いた人

ふつかよいの タカハシです。

ふつかよいのタカハシです。三度の飯より酒を愛しています。
イッセイミヤケの販売員を経てアパレルメーカーの営業職に転職、その後フリーライターに。
COREZO!ASAKUSAを通し、ディープな浅草の魅力を発信していければと思います。
Twitter:f_y_takahashi